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雅楽の起こり(古墳・飛鳥時代~)

  

日本の新たな国の形が整い始めた紀元5世紀頃、大陸から新たな文化と共に音楽や舞踊が伝わるようになりました。それらの外来の音楽に日本に古来から伝わる歌や楽、舞などが合わさり、今日に見られる雅楽の基礎が形成されました。  

 

古くは限られた貴人だけが耳にする音楽であり、宮中を始め大きな寺社における法要や儀式の際に演奏されていました。

雅楽の隆盛(平安時代~)

  

平安時代は雅楽の全盛期といえる時代です。公的な儀式だけでなく、皇族や貴族の私的な宴などでも盛んに演奏されて楽しまれるようになりました。

この時期行われたことで後の雅楽に大きな影響を与えたものに楽制改革があります。

 

主に楽曲の出身地域ごとに分け、それぞれ中国・林邑(ベトナム)・天竺(インド)の音楽は左方唐楽、朝鮮半島の音楽は右方高麗楽に分類された。さらに、それまで使用されていた楽器をいくつか廃止するなど大規模な編成・改革作業が行われました。

制度が整い、演奏機会も増加したことで次第に技術も向上し、日本人による編曲や作曲も盛んに行われるようになります。また、催馬楽、朗詠、今様など娯楽性の強い謡物と呼ばれるジャンルが成立しました。  

  

遣唐使の廃絶による国風文化の隆興も相成り、雅楽は次第に日本化の度合いを深めていくのです。

  

  

雅楽受難の時代(室町時代~)

京都の宮廷文化に支えられて栄えた雅楽でしたが、室町時代になると一転して衰退の危機を迎えます。

応仁の乱の勃発、そして続く動乱の戦国時代の到来です。

 

この間京都は荒廃し、宮廷文化の担い手である貴族は力を大きく失います。そして後ろ盾を失った京都の楽人は戦禍を逃れて、地方へと散り散りになってしまいました。

それまでに伝えられていた衣装や演奏技法、楽譜などの多くの雅楽資料が焼失したとされています。

雅楽の復興(安土桃山時代~)

 

しかし戦国時代もひと段落して世の中が安定してくると、織田信長や豊臣秀吉といった天下人は自らの威光を示すために京都の再建にとりかかり、雅楽の復興にも取り組みます。

戦火の影響が少なかった大阪四天王寺と奈良興福寺から楽人を呼び寄せ、宮中の足りない楽人を補いました。こうして京都・奈良(南都)・大阪(天王寺)の三方の楽所を中心に雅楽は復興され、衰退の危機を乗り越えたのでした。

  

天下人による庇護は江戸時代にも引き継がれ、三代将軍徳川家光の時代には徳川家康の廟所での祭儀のため、三方楽所より楽人を呼び寄せて江戸城内に新たな楽所紅葉山楽所が設置されます。

また平和な時代が続く事により各地の大名も文化振興に傾倒するようになり、雅楽を嗜む大名も増えるなど、より多くの人が雅楽を楽しむようにもなりました。

現代 

  

明治時代になると政府によって三方楽所や紅葉山楽人が廃止され、それぞれの楽人が東京へ招集されて新たに雅楽局が設けられました。これは現在の宮内庁式部職楽部の前身となっています。

  

その際、各楽所・楽家によって演奏方法や楽譜なども異なっていた事が問題となります。そこでこれらを統一、整理する作業が行われ、明治選定譜と呼ばれる楽譜が作成されます。これによって現在正式に伝わっている雅楽の曲は約100曲となっています。

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